多元的保守思想の復興
冷戦脳を捨て、日本人としての姿を取り戻す。
先日、「二つの『保守』」という記事で、
「二・一」構造的保守
「多・一」構造的保守
という二種類の「保守」のあり方が存在すると述べました。
この名前を改めて、もっとシンプルに、
二元的保守
多元的保守
と呼び直したいと思います。

二元的保守とは、世界や国内を、二つの対立する陣営に二分し、一方を「善」、他方を「悪」として価値評価をした上で、「善」と見なした陣営に自分たちを組み込み、「悪」と見なした陣営を殲滅していこうとする「保守」思想のことです。
二元的保守は、片側陣営への傾斜によって、最終的にはグローバリズムに代表されるような、一元化された世界を招きいれてしまいます。また、世界が一元化されるのと同時に、国内に二分化された格差社会をもたらします。
(参照記事: 「グローバリズムと「二・一」構造」)
二元的保守は、「冷戦」すなわち、第二次世界大戦後の世界の二極対立という特殊な時代状況の中で、あくまで時限的に要請された「保守」のあり方であり、必ずしも日本の伝統的な思想や価値観を反映したものではありません。
江戸時代には、儒教の影響から「勧善懲悪」的な物語形式も発展しましたが、『平家物語』が「源氏(善)VS平家(悪)」といった勧善懲悪として描かれていないことから伺えるように、二元的思考は、日本人の意識に深い根を持つものではありません。
にもかかわらず、この「保守」のあり方は、冷戦が終結して四半世紀が経過する現在においても、「保守」の通常のそして唯一のあり方であるかのように信じられており、多くの日本人の間に広がっています。
二元的保守の信奉者たちは、「特ア(悪)vsアメリカ(善)」というように世界を単純に二分した上で、特アと対立しアメリカに傾斜する(ように見える)安倍政権を熱狂的に支持し、TPPに参加して虚構の「対中包囲網」を形成したり、集団的自衛権行使を容認したりして、悪の勢力の殲滅を願いながら、実際には自分たちの国を構造改革とグローバリズムによって破壊してしまいます。

一方、多元的保守は、八百万の神を拝み、森羅万象に等しく価値を認めてきた、日本人が古来から育んできた多元的な世界観に深く合致した保守のあり方です。
多元的保守は、世界の諸民族の多種多様な文化や伝統に等しい価値を認めて敬意を寄せます。そして、世界の多様性を支える一つの要素として、自らの国の文化や伝統に深い敬意や愛情を寄せます。
多元的保守は、自らの文化や伝統の特殊性を保持することによって、世界の多様性の維持に寄与しようとします。また逆に、多元的な世界を保持することによって、自らの特殊性を守り抜こうとします。
(参照記事: 「すばらしき世界よ、永遠なれ」)
自由貿易の促進が契機となって推し進められるグローバリズムは、皮肉なことに、世界を画一化し、その差異を取り除くことによって、貿易の意味そのものを消尽させてしまいます。
「新自由主義」と呼ばれる暴走した資本主義は、つねにサプライサイド(供給側)に立ち、株主利益と企業効率を最大化しようとして、国籍や国境の垣根を取り除き、コストの低い楽土を求めて生産拠点を転々と移し続ける結果、最終的には、世界の誰しもが、世界のどこでも、同じような安い賃金で、同じような物を生産する世界が到来します。すると、外国から物を輸入する必要がなくなってしまいます。
また、株主利益と企業効率を最大化するために、最大化されるのは国民の税負担であり、最小化されるのは国民の賃金です。消費需要は減退し、経済のパイそのものが縮小していきます。
それとは対照的に、世界を一元化しようとする力に抗ってその多元性を保持し、世界の各国や諸民族がその特殊性を発揮し、互いに積極的に差異を作りだそうと努めるならば、むしろ貿易は活性化されます。
各国や諸民族が、各自の文化や伝統に沿いつつ、自分たちにしか作れないものを作り出すならば、そのときこそ、自分たちが作れないものを他の国から買おうとする需要が促進されるからです。
また、サプライサイド(供給側・企業側)とディマンドサイド(需要側・労働者側)の利益配分を調整する国家のバランス機能を高めることによって、過当競争が招く消費需要の減退と市場規模の縮小、つまりデフレが食い止められるようになります。
このように、グローバリズムや一元化された世界が貧困や格差をもたらすのと対照的に、多元的な世界は、文化的にも経済的にも豊穣な世界をもたらします。
冷戦時代のパラダイムを深く刷り込まれた現代の日本人は、ものごとを二元的に考えることにあまりにも馴らされており、その二元的な思考(冷戦脳)が、多くの禍と苦しみを日本人にもたらしています。
しかし、私たちの心の深層を掘り下げ行くならば、二元的な思考ではなく、多元的な考え方こそが、日本人としての本来の姿に深く合致したものであることに気づくはずです。
そして、私たちがそのことに気づき、日本人としてのあり方を取り戻すとき、私たちは、もはや自分たちの立場に「保守」という限定句を付すことすら不必要になります。
「我々は保守だ」とか「彼らは保守ではない」などと口にすることすらナンセンスに受け取られる時代がやってくるのです。
では、そのとき、私たちは自らの立場をなんと呼ぶか。
私たちは、深い心の奥底から、ただ、「私たちは日本人です」と自己紹介するようになるはずです。
「二・一」構造的保守
「多・一」構造的保守
という二種類の「保守」のあり方が存在すると述べました。
この名前を改めて、もっとシンプルに、
二元的保守
多元的保守
と呼び直したいと思います。

二元的保守とは、世界や国内を、二つの対立する陣営に二分し、一方を「善」、他方を「悪」として価値評価をした上で、「善」と見なした陣営に自分たちを組み込み、「悪」と見なした陣営を殲滅していこうとする「保守」思想のことです。
二元的保守は、片側陣営への傾斜によって、最終的にはグローバリズムに代表されるような、一元化された世界を招きいれてしまいます。また、世界が一元化されるのと同時に、国内に二分化された格差社会をもたらします。
(参照記事: 「グローバリズムと「二・一」構造」)
二元的保守は、「冷戦」すなわち、第二次世界大戦後の世界の二極対立という特殊な時代状況の中で、あくまで時限的に要請された「保守」のあり方であり、必ずしも日本の伝統的な思想や価値観を反映したものではありません。
江戸時代には、儒教の影響から「勧善懲悪」的な物語形式も発展しましたが、『平家物語』が「源氏(善)VS平家(悪)」といった勧善懲悪として描かれていないことから伺えるように、二元的思考は、日本人の意識に深い根を持つものではありません。
にもかかわらず、この「保守」のあり方は、冷戦が終結して四半世紀が経過する現在においても、「保守」の通常のそして唯一のあり方であるかのように信じられており、多くの日本人の間に広がっています。
二元的保守の信奉者たちは、「特ア(悪)vsアメリカ(善)」というように世界を単純に二分した上で、特アと対立しアメリカに傾斜する(ように見える)安倍政権を熱狂的に支持し、TPPに参加して虚構の「対中包囲網」を形成したり、集団的自衛権行使を容認したりして、悪の勢力の殲滅を願いながら、実際には自分たちの国を構造改革とグローバリズムによって破壊してしまいます。

一方、多元的保守は、八百万の神を拝み、森羅万象に等しく価値を認めてきた、日本人が古来から育んできた多元的な世界観に深く合致した保守のあり方です。
多元的保守は、世界の諸民族の多種多様な文化や伝統に等しい価値を認めて敬意を寄せます。そして、世界の多様性を支える一つの要素として、自らの国の文化や伝統に深い敬意や愛情を寄せます。
多元的保守は、自らの文化や伝統の特殊性を保持することによって、世界の多様性の維持に寄与しようとします。また逆に、多元的な世界を保持することによって、自らの特殊性を守り抜こうとします。
(参照記事: 「すばらしき世界よ、永遠なれ」)
自由貿易の促進が契機となって推し進められるグローバリズムは、皮肉なことに、世界を画一化し、その差異を取り除くことによって、貿易の意味そのものを消尽させてしまいます。
「新自由主義」と呼ばれる暴走した資本主義は、つねにサプライサイド(供給側)に立ち、株主利益と企業効率を最大化しようとして、国籍や国境の垣根を取り除き、コストの低い楽土を求めて生産拠点を転々と移し続ける結果、最終的には、世界の誰しもが、世界のどこでも、同じような安い賃金で、同じような物を生産する世界が到来します。すると、外国から物を輸入する必要がなくなってしまいます。
また、株主利益と企業効率を最大化するために、最大化されるのは国民の税負担であり、最小化されるのは国民の賃金です。消費需要は減退し、経済のパイそのものが縮小していきます。
それとは対照的に、世界を一元化しようとする力に抗ってその多元性を保持し、世界の各国や諸民族がその特殊性を発揮し、互いに積極的に差異を作りだそうと努めるならば、むしろ貿易は活性化されます。
各国や諸民族が、各自の文化や伝統に沿いつつ、自分たちにしか作れないものを作り出すならば、そのときこそ、自分たちが作れないものを他の国から買おうとする需要が促進されるからです。
また、サプライサイド(供給側・企業側)とディマンドサイド(需要側・労働者側)の利益配分を調整する国家のバランス機能を高めることによって、過当競争が招く消費需要の減退と市場規模の縮小、つまりデフレが食い止められるようになります。
このように、グローバリズムや一元化された世界が貧困や格差をもたらすのと対照的に、多元的な世界は、文化的にも経済的にも豊穣な世界をもたらします。
冷戦時代のパラダイムを深く刷り込まれた現代の日本人は、ものごとを二元的に考えることにあまりにも馴らされており、その二元的な思考(冷戦脳)が、多くの禍と苦しみを日本人にもたらしています。
しかし、私たちの心の深層を掘り下げ行くならば、二元的な思考ではなく、多元的な考え方こそが、日本人としての本来の姿に深く合致したものであることに気づくはずです。
そして、私たちがそのことに気づき、日本人としてのあり方を取り戻すとき、私たちは、もはや自分たちの立場に「保守」という限定句を付すことすら不必要になります。
「我々は保守だ」とか「彼らは保守ではない」などと口にすることすらナンセンスに受け取られる時代がやってくるのです。
では、そのとき、私たちは自らの立場をなんと呼ぶか。
私たちは、深い心の奥底から、ただ、「私たちは日本人です」と自己紹介するようになるはずです。
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