二つの「保守」
本当の「保守」の定義。
二つの「保守」の立場が存在します。
一つは、
「二・一」構造的保守、
もう一つは、
「多・一」構造的保守です。
「二・一」構造的保守は、世界や日本を、右翼や左翼といった「二」つの陣営に「二」分化し、「二」項対立を強調し、この「二」項対立を契機に、片側陣営への傾斜を煽り、対立陣営の殲滅を願い、資本主義や自由主義といった「一」元的体制に日本を組み込み、最終的には世界を「一」つの価値観や「一」つの基準によって統「一」しようとする「保守」です。この「保守」の立場は、グローバリズムとの強い親和性をもっています。

この「保守」の立場は、戦後、冷戦構造の中で培われ、日本人の意識の中に深く定着した「保守」の立場です。冷戦終結後四半世紀が経過しても、その二元的な意識はなおも多くの日本人を縛り付けており、安倍政権のようなグローバリズム政権を「保守」政権であると錯覚させています。
ネット上で「保守」を標榜している人々のほとんどは、このタイプの「保守」であり、二元的・二極的な思考に毒されています。
一方、「多・一」構造的保守とは、世界の「多」様性の中に、日本という「一」国の特殊性を保持していこうとする保守です。また逆に、日本という「一」国の特殊性を保持することによって、世界の「多」様性を保持しようとする保守です。
この保守の立場は、特定のイデオロギーよりも、国の成り立ちや歴史に深く根ざす保守の立場ですが、冷戦終結によって浮上した「グローバリズムVS多元的世界」「一極VS多極」という新しい対立の図式の中で特に要請される立場です。

この保守の立場は、「右翼(善)VS左翼(悪)」、「日本(善)VS韓国(悪)」、「自民党(善)VS民主党(悪)」といった二項対立を、虚構や罠として嫌います。
日本という国を、「日本(善)vs●●(悪)」といった対称性をもつ二項対立の図式の中で捉えるのではなく、世界の「多」様性という巨視的、俯瞰的な視点の中に日本を位置づけ、「一」つの有機体としての日本に課せられた運命を、それ自身に内在する論理や脈動として把捉しようとします。
また過去の特定の時代を神聖視して、そのあり方の再現や固定化を図るというよりは、生き物である国の歩みを一つのダイナミックなプロセスとして捉え、そのプロセスの内部で、有機体としての自己同一性が担保されるのであれば、変化を厭うことのない保守の立場です。
この保守の立場は、変化そのものを憎むのではなく、過去の来歴と没交渉に、外部の勢力の都合によって、自分たちの国家の運命や特殊性を抹消するような仕方で押し付けられる「変化」を唾棄します。
言葉の本当の意味での「保守」とは、言うまでもなく、「二・一」構造的保守ではなく、「多・一」構造的保守の方ですが、頑迷に、時代錯誤な「二・一」構造的保守の立場に固執しつづける人々は、「多・一」構造的保守の立場が理解できず「左翼」と錯覚します。
なぜ、「二・一」構造的保守は本当の「保守」と言えないのか。
冷戦終結によって歯止めのきかなくなった自由主義陣営への傾斜と、一元的な制度や価値観による世界の規格化の流れの中に日本を組み込むことによって、日本のもつ特殊性、一つの有機体としての国家の運命(自然で内発的な変化)、つまりは、日本の国体や国柄を解消してしまうためです。
一つは、
「二・一」構造的保守、
もう一つは、
「多・一」構造的保守です。
「二・一」構造的保守は、世界や日本を、右翼や左翼といった「二」つの陣営に「二」分化し、「二」項対立を強調し、この「二」項対立を契機に、片側陣営への傾斜を煽り、対立陣営の殲滅を願い、資本主義や自由主義といった「一」元的体制に日本を組み込み、最終的には世界を「一」つの価値観や「一」つの基準によって統「一」しようとする「保守」です。この「保守」の立場は、グローバリズムとの強い親和性をもっています。

この「保守」の立場は、戦後、冷戦構造の中で培われ、日本人の意識の中に深く定着した「保守」の立場です。冷戦終結後四半世紀が経過しても、その二元的な意識はなおも多くの日本人を縛り付けており、安倍政権のようなグローバリズム政権を「保守」政権であると錯覚させています。
ネット上で「保守」を標榜している人々のほとんどは、このタイプの「保守」であり、二元的・二極的な思考に毒されています。
一方、「多・一」構造的保守とは、世界の「多」様性の中に、日本という「一」国の特殊性を保持していこうとする保守です。また逆に、日本という「一」国の特殊性を保持することによって、世界の「多」様性を保持しようとする保守です。
この保守の立場は、特定のイデオロギーよりも、国の成り立ちや歴史に深く根ざす保守の立場ですが、冷戦終結によって浮上した「グローバリズムVS多元的世界」「一極VS多極」という新しい対立の図式の中で特に要請される立場です。

この保守の立場は、「右翼(善)VS左翼(悪)」、「日本(善)VS韓国(悪)」、「自民党(善)VS民主党(悪)」といった二項対立を、虚構や罠として嫌います。
日本という国を、「日本(善)vs●●(悪)」といった対称性をもつ二項対立の図式の中で捉えるのではなく、世界の「多」様性という巨視的、俯瞰的な視点の中に日本を位置づけ、「一」つの有機体としての日本に課せられた運命を、それ自身に内在する論理や脈動として把捉しようとします。
また過去の特定の時代を神聖視して、そのあり方の再現や固定化を図るというよりは、生き物である国の歩みを一つのダイナミックなプロセスとして捉え、そのプロセスの内部で、有機体としての自己同一性が担保されるのであれば、変化を厭うことのない保守の立場です。
この保守の立場は、変化そのものを憎むのではなく、過去の来歴と没交渉に、外部の勢力の都合によって、自分たちの国家の運命や特殊性を抹消するような仕方で押し付けられる「変化」を唾棄します。
言葉の本当の意味での「保守」とは、言うまでもなく、「二・一」構造的保守ではなく、「多・一」構造的保守の方ですが、頑迷に、時代錯誤な「二・一」構造的保守の立場に固執しつづける人々は、「多・一」構造的保守の立場が理解できず「左翼」と錯覚します。
なぜ、「二・一」構造的保守は本当の「保守」と言えないのか。
冷戦終結によって歯止めのきかなくなった自由主義陣営への傾斜と、一元的な制度や価値観による世界の規格化の流れの中に日本を組み込むことによって、日本のもつ特殊性、一つの有機体としての国家の運命(自然で内発的な変化)、つまりは、日本の国体や国柄を解消してしまうためです。
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