ものごとは二元性を超えた場所にある
若葉の色も、お米の味も、慰安婦も、そして日本も。
若葉の色は、白か、黒か。
こう問われたら、ある人は言うかもしれません。
「若葉の色は、白ではない。したがって黒だ」と。
また他の人々は言うかもしれません。
「若葉の色は、黒ではない。したがって白だ」と。
正しい答えは、若葉の色は、白でもなければ、黒でもありません。
若葉の色に限らず、この世界のありとあらゆる物事は、あれかこれかという、二元的な問いを超えた場所に存在しています。
若葉の色は、無限に多様な色彩の中の一つであり、
お米の味は、無限に多様な味わいの中の一つであり、
慰安婦一人一人の物語は、無限に多様な人間の生き様の中の一つであり、
日本という国は、歴史の中に生起し、これから生起しうる無限に多様な国々の中の一つです。
しかし、現在、私たちの国には、物事を「あれかこれか」という二項対立で捉えようとする人々にあふれかえっているように見えます。
人々は言います、「君は、右翼なのか、左翼なのか」と。
人々は言います、「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か、どちらなのか」と。
二元的なものの見方は、殊に、冷戦時代を通過した戦後の日本人の脳に深く刷り込まれています。
二元的にものごとを捉える「冷戦脳」は、日本人に次のように錯覚させました。
「共産主義は悪だから、資本主義は善だ」と。
「社会主義は悪だから、自由主義は善だ」と。
「左翼は悪だから、右翼は善だ」と。
「特定アジアは悪だから、アメリカは善だ」と。
「民主党は悪だから、自民党は善だ」と。
また「冷戦脳」の持ち主たちは、次のように誤解しました。
「誰かが資本主義を批判している。だからそいつは共産主義者だ」と。
「誰かが自由主義を批判している。だからそいつは社会主義者だ」と。
「誰かが右翼を批判している。だからそいつは左翼だ」と。
「誰かがアメリカを批判している。だからそいつは特定アジアの回し者だ」と。
「誰かが自民党を批判している。だからそいつは民主党支持者だ」と。
「冷戦脳」の持ち主たちは、右翼も左翼もない立場が存在するということが理解できません。
安倍政権という亡国政権を、救国政権であるかのように人々に錯覚させているのも、この二元的なものの見方です。
二元的に物事をとらえるとき、結果として生じるのは、不毛な対立と、二つのうちの片側の立場への極端な傾斜です。
二元的なものの見方は、ものごとを救ったり守ったり解決したりするどころか、根底から損なってしまいます。
二元的なものの見方は、若葉の色も、お米の味も、慰安婦問題も、日本も、ことごとく台無しにしてしまいます。
日本が守られるとしたら、それは日本人が「あれか、これか」と問う、その二元的な思考を離脱して、多様性の中にあるがままにものごとを捉えるようになったときです。
「二元的な思考を超える」と言うと難しく聞こえますが、何も難しい事はありません。
白でも黒でもない、若葉の色を、そのまま見つめればよいのです。
こう問われたら、ある人は言うかもしれません。
「若葉の色は、白ではない。したがって黒だ」と。
また他の人々は言うかもしれません。
「若葉の色は、黒ではない。したがって白だ」と。
正しい答えは、若葉の色は、白でもなければ、黒でもありません。
若葉の色に限らず、この世界のありとあらゆる物事は、あれかこれかという、二元的な問いを超えた場所に存在しています。
若葉の色は、無限に多様な色彩の中の一つであり、
お米の味は、無限に多様な味わいの中の一つであり、
慰安婦一人一人の物語は、無限に多様な人間の生き様の中の一つであり、
日本という国は、歴史の中に生起し、これから生起しうる無限に多様な国々の中の一つです。
しかし、現在、私たちの国には、物事を「あれかこれか」という二項対立で捉えようとする人々にあふれかえっているように見えます。
人々は言います、「君は、右翼なのか、左翼なのか」と。
人々は言います、「慰安婦は、売春婦か、性奴隷か、どちらなのか」と。
二元的なものの見方は、殊に、冷戦時代を通過した戦後の日本人の脳に深く刷り込まれています。
二元的にものごとを捉える「冷戦脳」は、日本人に次のように錯覚させました。
「共産主義は悪だから、資本主義は善だ」と。
「社会主義は悪だから、自由主義は善だ」と。
「左翼は悪だから、右翼は善だ」と。
「特定アジアは悪だから、アメリカは善だ」と。
「民主党は悪だから、自民党は善だ」と。
また「冷戦脳」の持ち主たちは、次のように誤解しました。
「誰かが資本主義を批判している。だからそいつは共産主義者だ」と。
「誰かが自由主義を批判している。だからそいつは社会主義者だ」と。
「誰かが右翼を批判している。だからそいつは左翼だ」と。
「誰かがアメリカを批判している。だからそいつは特定アジアの回し者だ」と。
「誰かが自民党を批判している。だからそいつは民主党支持者だ」と。
「冷戦脳」の持ち主たちは、右翼も左翼もない立場が存在するということが理解できません。
安倍政権という亡国政権を、救国政権であるかのように人々に錯覚させているのも、この二元的なものの見方です。
二元的に物事をとらえるとき、結果として生じるのは、不毛な対立と、二つのうちの片側の立場への極端な傾斜です。
二元的なものの見方は、ものごとを救ったり守ったり解決したりするどころか、根底から損なってしまいます。
二元的なものの見方は、若葉の色も、お米の味も、慰安婦問題も、日本も、ことごとく台無しにしてしまいます。
日本が守られるとしたら、それは日本人が「あれか、これか」と問う、その二元的な思考を離脱して、多様性の中にあるがままにものごとを捉えるようになったときです。
「二元的な思考を超える」と言うと難しく聞こえますが、何も難しい事はありません。
白でも黒でもない、若葉の色を、そのまま見つめればよいのです。
- 関連記事
-
- 二つの「保守」 (2014/06/09)
- 「すばらしき世界よ、永遠なれ」 (2014/06/08)
- ものごとは二元性を超えた場所にある (2014/06/06)
- 私たちを誤らせる論理 (2014/04/28)
- 何を「保守」するのか (2013/11/29)