従来の「保守」概念と、本来あるべき「保守」概念
「右翼」も「左翼」も日本を壊す。
当ブログが、これまで述べてきたことを、図にしてみました。
日本を近代的な「国民国家」として成立させるために、西洋の君主制を模倣しながら再整備された明治の天皇制(天皇に関する制度)は、その後、富国強兵のスローガンの下、同じく西洋から導入された産業資本主義と深く結びついていきました。その後、大正から昭和にかけて、資本主義に対するアンチテーゼとして、共産主義の思想が海外から導入されることで、「右翼」VS「左翼」の対立構図が国内に生じ、「左翼」の策謀に対抗して、「右翼」の側に立ち、「天皇制&資本主義」の明治体制的な枠組みを護持することが「保守・愛国」の使命と考えられるようになり、この考え方は戦後、冷戦構造の中でいっそう強化されていきました。

しかし、この「右翼」VS「左翼」の対立の構図には、一つの重大な落とし穴がありました。
それは、資本主義(自由主義)にせよ、共産主義(社会主義)にせよ、共に海外で生まれ、海外から移入されたイデオロギーや社会制度であったということです。そのため、どちらの側に傾斜したとしても、日本の本来の国柄や国の形をゆがめてしまうものであったということです。
共産主義に対抗して、資本主義や自由主義のイデオロギーを護持したところで、日本の文化や伝統や国柄を守っていくことには全くつながらないどころか、それらを根底から破壊してしまうという事実が、安倍政権の政策を通して、昨今ますます明らかになってきました。
従って、私たちは、従来の「右翼」VS「左翼」という戦前に生まれ、冷戦時代に強化されたパラダイムを脱却して、明治の体制よりもさらに古い日本の歴史の源流に根ざした、新しい「保守」概念を確立しなくてはなりません。

ここで再確認しなくてはならないことは、私たちが本来守るべきものは、海外から移入された特定のイデオロギーや経済体制なのではなく、また特定の時代の社会体制なのではなく、縄文の時代から現代に至る日本人の歩みによって、営々と積み重ねられてきた伝統や文化や国柄であるということです。
私たちは、伝統や文化や国柄を守ろうとする観点から、資本主義と共産主義、その両者を同じ距離感で批判しなくてはならないし、また同時に、その両者から、よい部分はうまく取り込んでいかなくてはなりません。
また、資本主義と共産主義の対立も、「資本家VS労働者」という対立や相克の図式の中でとらえるのではなく、「サプライサイド(供給側)」と、「ディマンドサイド(需要側)」の相互補完的な考え方ととらえるならば、二者択一的に、片方の立場を選んで片方の立場を廃する必要はなく、共に、日本の国や国柄を支えていくものとして上手に生かしていくことができるはずです。上に立つ者も下に立つ者も、互いを敬い合い譲り合いながら共に力を合わせていくのが、日本の伝統であり国柄ですから、本来、資本主義と共産主義は、日本の風土の中では、対立関係にはなり得ないものです。上に立つ者(資本家)にせよ、下に立つ者(労働者)にせよ、いずれか片方の人々の側に立って、もう片方の人々を蔑み虐げること、そのことがそもそも日本の国柄に背く行為ですから、「右翼」vs「左翼」の対立図式は、日本の伝統的なあり方にとってはあくまで非本来的なものです。
冷戦が終わって、すでに20年以上が経過します。
私たちが、いつまでも「右翼」と「左翼」の二つの陣営に分かれて虚妄な対立に明け暮れ続けるかぎり、私たち日本人が本当に守らなければならないものは、これからも、いつまでも、おきざりのままに放置されていくことでしょう。
山本太郎という「左翼男」を叩き続ける、チャンネル桜を始めとする「右翼」の人々が、TPPや道州制といった、日本の国体や国柄にとっての最大の脅威を放置しつづけるように。
私たち日本人は、「右翼」や「左翼」という人為的なイデオロギーによって形作られた特定の集団に属そうとするのをやめて、私たちの本当の源である、古代から現代に至る日本という国家の歩みの総体、すなわち「国体」に結集しなくてはなりません。
「国体」への結集。それこそが「保守」の本当の定義です。
日本を近代的な「国民国家」として成立させるために、西洋の君主制を模倣しながら再整備された明治の天皇制(天皇に関する制度)は、その後、富国強兵のスローガンの下、同じく西洋から導入された産業資本主義と深く結びついていきました。その後、大正から昭和にかけて、資本主義に対するアンチテーゼとして、共産主義の思想が海外から導入されることで、「右翼」VS「左翼」の対立構図が国内に生じ、「左翼」の策謀に対抗して、「右翼」の側に立ち、「天皇制&資本主義」の明治体制的な枠組みを護持することが「保守・愛国」の使命と考えられるようになり、この考え方は戦後、冷戦構造の中でいっそう強化されていきました。

しかし、この「右翼」VS「左翼」の対立の構図には、一つの重大な落とし穴がありました。
それは、資本主義(自由主義)にせよ、共産主義(社会主義)にせよ、共に海外で生まれ、海外から移入されたイデオロギーや社会制度であったということです。そのため、どちらの側に傾斜したとしても、日本の本来の国柄や国の形をゆがめてしまうものであったということです。
共産主義に対抗して、資本主義や自由主義のイデオロギーを護持したところで、日本の文化や伝統や国柄を守っていくことには全くつながらないどころか、それらを根底から破壊してしまうという事実が、安倍政権の政策を通して、昨今ますます明らかになってきました。
従って、私たちは、従来の「右翼」VS「左翼」という戦前に生まれ、冷戦時代に強化されたパラダイムを脱却して、明治の体制よりもさらに古い日本の歴史の源流に根ざした、新しい「保守」概念を確立しなくてはなりません。

ここで再確認しなくてはならないことは、私たちが本来守るべきものは、海外から移入された特定のイデオロギーや経済体制なのではなく、また特定の時代の社会体制なのではなく、縄文の時代から現代に至る日本人の歩みによって、営々と積み重ねられてきた伝統や文化や国柄であるということです。
私たちは、伝統や文化や国柄を守ろうとする観点から、資本主義と共産主義、その両者を同じ距離感で批判しなくてはならないし、また同時に、その両者から、よい部分はうまく取り込んでいかなくてはなりません。
また、資本主義と共産主義の対立も、「資本家VS労働者」という対立や相克の図式の中でとらえるのではなく、「サプライサイド(供給側)」と、「ディマンドサイド(需要側)」の相互補完的な考え方ととらえるならば、二者択一的に、片方の立場を選んで片方の立場を廃する必要はなく、共に、日本の国や国柄を支えていくものとして上手に生かしていくことができるはずです。上に立つ者も下に立つ者も、互いを敬い合い譲り合いながら共に力を合わせていくのが、日本の伝統であり国柄ですから、本来、資本主義と共産主義は、日本の風土の中では、対立関係にはなり得ないものです。上に立つ者(資本家)にせよ、下に立つ者(労働者)にせよ、いずれか片方の人々の側に立って、もう片方の人々を蔑み虐げること、そのことがそもそも日本の国柄に背く行為ですから、「右翼」vs「左翼」の対立図式は、日本の伝統的なあり方にとってはあくまで非本来的なものです。
冷戦が終わって、すでに20年以上が経過します。
私たちが、いつまでも「右翼」と「左翼」の二つの陣営に分かれて虚妄な対立に明け暮れ続けるかぎり、私たち日本人が本当に守らなければならないものは、これからも、いつまでも、おきざりのままに放置されていくことでしょう。
山本太郎という「左翼男」を叩き続ける、チャンネル桜を始めとする「右翼」の人々が、TPPや道州制といった、日本の国体や国柄にとっての最大の脅威を放置しつづけるように。
私たち日本人は、「右翼」や「左翼」という人為的なイデオロギーによって形作られた特定の集団に属そうとするのをやめて、私たちの本当の源である、古代から現代に至る日本という国家の歩みの総体、すなわち「国体」に結集しなくてはなりません。
「国体」への結集。それこそが「保守」の本当の定義です。
ブログ・ランキングにご協力ください。 一日一回、右のバナーをクリック願います。 |
![]() |
- 関連記事
-
- 親米保守は保守か (2013/12/12)
- よ、播磨屋! (2013/12/05)
- 従来の「保守」概念と、本来あるべき「保守」概念 (2013/11/16)
- 古代から現在に至る日本人の歩みの総体 (2013/11/13)
- 「保守」が目覚めはじめた (2013/10/15)