漱石と日本の近代化(19)

那美さんは、現実の中へと身を投げる。
漱石は、『草枕』という作品の意図を韜晦するかのように、旅館の女主人である那美さんとの会話の中で、画工に次のように語らせている。

「西洋の本ですか、むずかしい事が書いてあるでしょうね」
「なあに」
「じゃ何が書いてあるんです」
「そうですね。実はわたしにも、よく分らないんです」
「ホホホホ。それで御勉強なの」
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪いでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
 余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然しない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。
「好きだか、嫌いだか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の中を見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の眸は少しも動かない。
「ホホホホ解りませんか」
「しかし若いうちは随分御読みなすったろう」余は一本道で押し合うのをやめにして、ちょっと裏へ廻った。
「今でも若いつもりですよ。可哀想に」放した鷹はまたそれかかる。すこしも油断がならん。
「そんな事が男の前で云えれば、もう年寄のうちですよ」と、やっと引き戻した。
「そう云うあなたも随分の御年じゃあ、ありませんか。そんなに年をとっても、やっぱり、惚れたの、腫れたの、にきびが出来たのってえ事が面白いんですか」
「ええ、面白いんです、死ぬまで面白いんです」
「おやそう。それだから画工なんぞになれるんですね」
「全くです。画工だから、小説なんか初からしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。ここへ逗留しているうちは毎日話をしたいくらいです。何ならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初からしまいまで読む必要があるんです」
「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですね」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして、御籤を引くように、ぱっと開あけて、開いた所を、漫然と読んでるのが面白いんです」

(出典: 夏目漱石『草枕』)

「非人情」な小説の読み方、つまり、現実より美を重視する、ホトトギス派的な小説の読み方では、あらすじを辿ってはならないと漱石は画工に語らせるのだが、その実、『草枕』には、かなり緻密に組み立てられたあらすじがある。

「この小説(草枕)のあらすじをどうか辿らないでください」と言っているようにも読める画工の言葉は、漱石が、『草枕』という小説の中に密かに織り込んだ、写生文に対して抱き始めていた懐疑心を読み取られまいとする、ホトトギス派の人たちに対する遠慮の表れのようにも読める。

このように、漱石自身が、『草枕』が単なる写生文小説の一作例として誤読されることを期待している節がみられるので、『草枕』という作品を誤解してしまう人が現れるのも仕方がないとも言える。

しかし、『草枕』という作品を注意深く読むならば、漱石が、画工を単なる美的な桃源郷に遊ばせておくだけでは飽き足らず感じていたことを、私たちは、はっきりと読み取ることができる。

美的な桃源郷に離脱しようとする、上方への超越を目指す画工の意志が明確であればこそ、画工を引き戻そうとする下向きに働く現実の引力の強さが、かえって、はっきりしたコントラストで作品の中に顕在化してしまっているのである。

さて、一見、あらすじをもたないように見える『草枕』という不思議な物語には、どのようなあらすじが隠されているだろうか。

少し丁寧に作品を解説していこう。

まず、『草枕』という作品の終盤に、物語のクライマックスをなすある重要な場面が現れる。

作品の終盤にあらわれるクライマックスとは、旅館の出戻りの女主人、那美さんが、那美さんと同じ一族の先祖の女性が身を投げたという伝説がある鏡池の、まさにその女性が身を投げた岩の上に現れる場面である。

鏡池に写生に訪れていた画工は、鏡池の向こう側の岩の上に姿を現した那美さんの姿を見つけてはっと息を呑む。

 奇体なもので、影だけ眺めていてはいっこう画にならん。実物と見比べて工夫がして見たくなる。余は水面から眸を転じて、そろりそろりと上の方へ視線を移して行く。一丈の巌を、影の先から、水際の継目まで眺めて、継目から次第に水の上に出る。潤沢の気合から、皴皺の模様を逐一吟味してだんだんと登って行く。ようやく登り詰めて、余の双眼が今危巌の頂に達したるとき、余は蛇に睨まれた蟇のごとく、はたりと画筆を取り落した。

緑の枝を通す夕日を背に、暮れんとする晩春の蒼黒く巌頭を彩どる中に、楚然として織り出されたる女の顔は、――花下に余を驚かし、まぼろしに余を驚ろかし、振袖に余を驚かし、風呂場に余を驚かしたる女の顔である。

余が視線は、蒼白き女の顔の真中にぐさと釘付けにされたぎり動かない。女もしなやかなる体躯を伸せるだけ伸して、高い巌の上に一指も動かさずに立っている。この一刹那!

余は覚えず飛び上った。

(出典: 夏目漱石『草枕』)

この場面こそ、『草枕』という小説のクライマックスである。

読者も、画工も、那美さんが、身投げした先祖の女性と同じように、伝説の池の中に身を投げるのではとひやりとさせられるのだが、那美さんが飛び降りるのは池の中ではない。

那美さんは、池とは反対側の地面に岩の上から飛び降りて、着地する。

これは、「現実から離脱するために」身投げした先祖の身投げの女や、ハムレットのオフィリアとは対照的に、また美術や文学の力によって現実から離脱しようとする画工とは対照的に、那美さんが、「現実の中に」身を投げたことのメタファーである。

漱石は、この重要なシーンを小説の終盤に描くために、小説の冒頭からさまざまな伏線を張っている。

どのような伏線が張られているだろうか。

(つづく)
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