漱石と日本の近代化(13)

『草枕』に向けられる毀誉褒貶。
以前、「歴史を形作る目に見えない力について」という記事のシリーズで、律令制という中華文明に基づく日本の国家改造が行われた白鳳時代に、文明開化を推し進めた律令政府に背を向けるかのように、熊野の山中に籠もって修験道を開いた役小角という伝説的人物について論じたことがあります。

「近代文明の外部に立って近代社会を観察し、これを相対化する。」

漱石が、『吾輩は猫である』や、『草枕』などの初期の作品を通して行ったこの試みは、白鳳時代に役小角が試みたことと、本質的には同一のものであることに私たちは気付かされます。



役小角が開いた修験道は、その後長い時間をかけて、律令制度をその内部から瓦解させ、日本の中世という新しい時代を準備しました。

王朝時代の末期には、律令政府の中心を占める上皇や貴人らまでもが、役小角の足跡を辿って、熊野と都との間を往復するほど、時代の精神は変化していったのです。

一方、夏目漱石は、『それから』以降の作品において「文明の外部からの観察」という初期の創作スタイルを封印し、彼の作品の主人公たちを近代文明の枠内に閉じ込めることによって、あたかも、「文明の外側」という領域は20世紀の日本にもはや存在しないかのように、息の詰まる暗い作品を執筆するように変化していきました。

21世紀の現代を生きる私たちも、「文明の外部」という自由で根源的な領域は、もはや日本に存在しないかのように、資本主義によって高度に組織化された社会空間の中に閉じ込められて生きています。

この現代の社会システムの中では、「太平の逸民」は、ニートや負け組として、社会の最下層に位置づけられる運命に甘んじるより他に選択肢はありません。

この漱石の作風の変化の兆しは、『草枕』において既に現れていることを前回の記事で簡単に指摘しましたが、このことについて詳しく論じていきたいと思います。

山路を登りながら、こう考えた。

智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。

住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。

人の世を作ったものは神でもなければ鬼でもない。やはり向う三軒両隣りにちらちらするただの人である。ただの人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行くばかりだ。人でなしの国は人の世よりもなお住みにくかろう。

(出典: 夏目漱石『草枕』)

この有名な文章から書き起こされる『草枕』は、なかなか一筋縄ではいかない、漱石の問題作です。

この作品を熱烈に支持する信奉者が存在する一方で、この作品を手厳しく批判する人々も多くいるからです。

『草枕』の熱狂的ファンとして知られる有名人に、宮崎駿がいます。宮崎駿は、『草枕』の舞台として知られる熊本県の小天温泉に、ジブリ社員を社員旅行につれていったことがあるほど『草枕』が好きなことで知られています。

小天温泉にある「前田家別邸」は、宮崎駿が監督をつとめたジブリ映画「風立ちぬ」で、主人公二郎の実家のモデルとして描かれています。

宮崎駿の漱石好きは『草枕』に留まらず、「崖の上のポニョ』の「崖」という設定や主人公の「宗助」という名前は、漱石の小説『門』から引用されています。漱石の『門』の主人公宗助は、崖の下にある貸家に暮らしています。

昨年9月に、新宿にオープンした「新宿区立漱石山房記念館」の開館記念として、宮崎駿は、漱石を祖父にもつ半藤一利と公開対談を行いました。

半藤:言うのはタダだから言ってしまうんですが、今回オープンした漱石山房記念館の1階に映像のコーナーがあるんです。それを見ながら、宮崎先生は好きな漱石の短編なら記念館用に作ってくれるんじゃないか、と思っておりまして(笑)。

宮崎:いやいや(笑)。

半藤:宮崎さんがお好きな『草枕』で、主人公の洋画家が峠の茶屋で「おい」と声をかける場面はどうですか。奥からおばあさんが出てきて。

宮崎:ああ、いいですね、あの場面は。つまらないことにひっかかるんですけど、あのおばあさんの家にある駄菓子の箱に鶏がふんをする場面がありますけど、そもそも鶏が駄菓子を食わないのが不思議なんです。あと、舟で停車場(ステーション)に行く途中に、主人公が宿泊する宿の「若い奥様」那美さんが山へ向かって手をあげるシーンは一番きれいですね。

半藤:そのシーンもいいですね。汽車ぽっぽが出ていく。

宮崎:車掌が、ぴしゃりぴしゃりと車内のドアを閉めて走って来るでしょう。あれは、コンパートメントに分かれていた車両だったんでしょうね。その戸をぴしゃぴしゃと閉めたと、勝手に思っているんですけど。

半藤 正しいんじゃないでしょうかねえ。そういう、宮崎駿作の『草枕』のアニメーションを、ほんの5分、せいぜい10分ほどで作ってもらえないかなと。

宮崎:いやいや(笑)。でも僕は『草枕』が大好きで、飛行機に乗るときは必ずこれを持って行きます。何度読んでもおもしろい。だけど、難しい本ですね。難しいところは覚えてないんですよ。注ばっかり読まないといけないから、そういうところは飛ばして読みますが、漱石の漢文の素養は本当にすごい。

(出典: AERA2017年12月2日)

また『草枕』に強く傾倒した海外の有名人に、カナダのピアニスト、グレン・グールドがいます。『草枕』がグレン・グールドに与えた衝撃について記したJapan Timesの記事から引用してみましょう。

Two years after it was published, a copy of the book was placed in the hands of one of the world’s most celebrated pianists, Glenn Gould (1932-82).

Gould had shot to fame at the age of 22 for his revolutionary interpretation of Bach’s “Goldberg Variations,” and for the next nine years he dazzled concert halls around the world with his maverick style of piano playing. But by his early 30s Gould had retired from performing in public and began satirizing the pomposity of the world of classical music by inventing a host of comical alter egos to comment on his performances in critical essays and broadcasts. He began to see himself not just as musician but as an all-round creative artist.

In 1967, Gould left his hometown of Toronto, Canada, to take a summer vacation in Nova Scotia. Sitting alone in the club car of the train, he was recognized by a professor of chemistry called William Foley, who summoned up the courage to engage him in conversation. When the two men parted, Gould presented Foley with a recording of his rendition of Beethoven’s “Emperor” Concerto. In return, Foley sent Gould a copy of “The Three-Cornered World.”

Soseki’s novel was not only to become Gould’s favorite book (previously it had been Thomas Mann’s 1924 novel “The Magic Mountain”), but one that would obsess him for the last 15 years of his life. Despite having no particular interest in Japan, nor having ever visited, Gould ended up owning four copies of the book, two in English and, unexpectedly, two in Japanese. He owned the English translations of Soseki’s other novels and had more of the Japanese novelist’s books in his library than those of any other writer.

To his cousin, Jessie Greig — the person closest to him throughout his life — he expressed his love for “The Three-Cornered World” by reading the entire novel out to her over the telephone over the course of two evenings.

Not only did he heavily annotate the copy he received from Foley, but Gould also produced 37 separate pages of notes on the novel. He also condensed the first chapter and read it out as a 15-minute broadcast for the CBC radio show “Book Time” in December 1981; the same month he reinterpreted and re-recorded — after a gap of 26 years — Bach’s “Goldberg Variations.” And before his untimely death in 1982, he was preparing to write and perform his own radio play based on the book.

When he died there were only two books at his bedside: The Bible and “The Three-Cornered World.”

What was it about Soseki’s novel that so engaged him? It may have seemed to him that this novel completely exemplified his artistic beliefs. Gould reviled and sought to be free of the cloying emotionalism of so much music and art; his aspiration was toward the transcendent and the serene.

Despite there being numerous biographies and documentary films about the enigmatic genius of Gould, the impact “The Three-Cornered World” had on him is a subject that has generally escaped consideration by writers and researchers. A fascinating question still waiting to be answered is to what extent Soseki’s poetry breathed life into Gould’s musical performances late in his life.

大意:

世界で最も成功したピアニスト、グレン・グールド (1932-82)が、『草枕』を手にしたのは、英訳が出版されて二年後のことである。

グールドは、22才の時に、バッハのゴールドベルグ変奏曲の革命的な解釈によって一躍名声を手にし、その後9年間は、彼の異端的演奏を披露するために、世界中のコンサートホールを駆け回ったが、三十代前半には、すべてのコンサートから引退し、クラシック音楽界の尊大さを風刺するために、一人で何役もコミカルな役柄を演じて、批評文やテレビ番組の中で自分の演奏についてコメントした。彼は、自らを単なる音楽家としてではなく、オールラウンドの創造的な芸術家とみなすようになっていたのである。

1967年に生まれ故郷のトロントを出発して、避暑のためにノバ・スコティアに向かう電車の中で、彼はウィリアム・フォレイという化学教授に話しかけられた。別れる際に、グールドはフォレイ教授に、自分が演奏したベートーヴェンのピアノ協奏曲「皇帝」のレコードをプレゼントし、フォレイはグールドに『草枕』の英訳本を送った。

漱石のこの小説は、単にグールドのお気に入りの一冊となったのみならず、(それ以前はグールドのお気に入りは、トーマン・マンが1924年に書いた『魔の山』だった)、晩年の十五年間にわたって、グールドが取り憑かれた書物となった。日本に特に関心があったわけではないし、日本を訪れたこともなかったが、グールドは、最終的に四冊の『草枕』を所有するまでになった。二冊は英訳であり、二冊は日本語のものである。グールドは、『草枕』以外の漱石の作品の英訳も所有しており、書斎には、他のどの作家より多く、漱石の作品を所蔵していた。

全生涯を通して親しい存在だった、いとこのジェシー・グリーグに、グールドは、電話越しで二晩にわたって『草枕』の全編を朗読して聴かせ、この小説への愛情を表現した。

彼は、夥しいメモを『草枕』の英訳本に書き記しただけでなく、『草枕』に関する37ページに及ぶ注釈ノートも残した。彼はまた、ゴールドベルグ変奏曲を26年ぶりに再録音した1981年12月に、「本の時間」というCBCの15分間のラジオ番組で、『草枕』の第一章を短縮したものを朗読した。そして1982年の若すぎる死の直前には、『草枕』を翻案にしたラジオドラマを執筆し演じる準備に取り組んでいた。

グールドが死んだ際、彼の枕元には二冊の本のみが置かれていた。聖書と『草枕」であった。

『草枕』の何が、グールドをここまで惹きつけたのだろうか。それは、この小説が、グールドの芸術上の信念を体現していたからだろう。グールドは、あまりに多くの音楽や美術に蔓延する甘ったるい感情主義を口汚く罵り、そこから自由になろうとつとめた。グールドのあこがれは、超越と静謐に向けられていた。

グールドの謎めいた才能に関する多くの伝記やドキュメンタリー映像が存在するが、『草枕』がグールドに与えた衝撃という主題に、作家や研究者の考察が向けられてはこなかった。グールドの晩年の音楽活動に、『草枕』がどの程度の生命を吹き込んだかという問題は、今後の解明をまつ魅力的な問いである。

(出典: Japan Times 2015年2月14日)


下の動画は、グールドが、『草枕』を自らが解説し、朗読しているラジオ番組の音声です。


グールドが、『草枕』に共感を寄せたのは、上の記事で述べられているとおり、漱石が画工に語らせた「非人情の芸術」という芸術論にあったと考えられます。

漱石は「非人情の芸術論」によって、人間世界の恥部ばかりを暴き立てようとするリアリズム芸術と同時に、登場人物の感情に耽溺していくロマン主義をも批判しているのですが、グレン・グールドも、ロマン派の音楽作品や演奏法を毛嫌いしたことで知られた異色のピアニストだったからです。

グレン・グールドが、1955年に録音したバッハの「ゴールドベルグ変奏曲」のレコードは、その斬新なバッハ演奏によって、世界にセンセーションを引き起こしました。


グールド以前のピアノによるバッハ演奏は、まるでロマン派の代表的作曲家ショパンの作品を演奏するかのように、ペダルを多用し、なめらかなレガートをかけて、情感たっぷりに演奏されていました。


ところが、グールドは、ピアノを用いながらも、まるでチェンバロで演奏するかのような粒だったタッチによって、音楽の情感よりも、多声音楽の立体的な構造をくっきりと浮かび上がらせることに主眼をおいた演奏を行いました。

またグールドは、コンサート会場の観客の熱狂が、演奏家が冷静に作品に向き合うこと妨げると主張して、1964年に全ての生演奏から撤退し、それ以降は、『草枕』の主人公の画工が、現実社会から離れた「出世間」的な場所から芸術論を語ったのと同じように、生の聴衆から隔絶したスタジオという密室に籠もってレコーディングや、テレビ・ラジオ番組の司会に特化した活動を続けました。

この様に『草枕』には、熱狂的な信奉者が存在する一方で、手厳しい批判者も存在します。

たとえば次の様な批判です。

この作品はインテリ的な社会的孤立を芸術の名において肯定した、初期作品ではもっとも批判意識のレベルの低い作品である。

(中略)

画工は金田との関係による苦沙弥の苛立ちや赤シャツとの関係による坊ちゃんの滑稽さを人間関係から逃避することによって解消している。画工は人の世を住みにくいと感じ、人の世との関係を回避することを芸術の名において肯定している。この作品の冒頭の文章は資本主義が生み出したインテリ層の無力な社会認識を肯定的に定式化している。しかしこの作品で重要なのはインテリには名文として受け入れられているこの無内容で形式的な文章ではなく、人の世を住みにくいと感じ、人の世との関係を回避した画工の精神に生ずる特有の矛盾を描いていることである。

無力なインテリは現実の諸矛盾の旋風に巻き込まれることを恐れ矛盾を回避しようとする。諸矛盾から逃避し第三者の地位に立つことは画工には芸術家の特別の能力や権利に見える。しかし客観的には第三者の地位に立つのは現実の矛盾からの排除であり社会的な孤立である。人間関係から離れることでは人間関係に対する消極性を克服することはできない。世の中の矛盾から一時的に逃避すればいっそう瑣末な矛盾に悩まされることになる。下らない矛盾やその必然的な補完物である下らない理想を廃棄して俗世で平気になる方法は俗世に積極的に関わり現実の矛盾を自分の力とすることである。矛盾を本質化し発展させることが矛盾一般の解決方法である。

俗世の矛盾を回避した画工は二人の男に思われて悩んだ娘が淵に身を投げたという、社会的な矛盾を含まない単純な関係に典雅とか古雅とかいう趣味を感じている。峠の茶店は開け放ったままで人がいない、出て来た婆さんは素朴で、馬子が鈴を鳴らしながら通りかかって、これから行く宿に離婚した美しいお嬢さんがいて、婆さんがそのお嬢さんについて古雅な言葉で古雅な話をするなどという道具立は世俗の矛盾から逃避した軟弱で俗なインテリの好みである。人間とは、社会とは、芸術とはという巨大な主語に思いつきの述語を付け加えるのは具体的思考を知らない思想的無能である。イタリアのサルワトル・ロザ、中国の書家、万葉集、ターナー、レンブラント、シェレーなどと無闇に引用するのもインテリが現実社会に対する無知を覆い隠すために必要とする常套手段である。

積極的な矛盾から逃避して下らない矛盾の中で生きる画工には下らない矛盾を面白く解釈する趣味的な能力が発展する。希薄な人間関係を虹の糸だとか霞の糸だとか蜘蛛の糸だと解釈しても関係が面白くなることはない。興味深いとか面白いという表現自体感情の作為性を物語っている。無内容な彼らの精神は自分が興味深く面白い内容を持っていることを表明することを必要としている。

自然主義者は女を見ると欲情した上で道徳や人生観を述べる。ロマン主義者は女を見ると不幸を発見して救世主の役を演じたがり、同情しているのか発情しているのか判別し難い。両方を嫌う余裕派の画工は那美さんを前にして羊羹の美しさを鑑賞する。いずれにしても積極的な人間関係を形成する可能性のない世界に特有の感情である。自分で因果をつける力を持たない画工は羊羹の話をしながら相手の方で因果を繋いでくれるのを期待している。那美さんはこういうロマン主義的な、因果とも言えない因果を求める臆病で自己保身的な画工のやり方を嘲笑している。因果を細くし羊羹を鑑賞することは俗な人間関係を端的にする方法ではない。下らない因果と細い因果は同義である。那美さんは画工の趣味を知って隠居した骨董好きの父を紹介し、画工の趣味が隠居にふさわしいと侮っている。羊羹の色はいいがゼリーは重みがないとか、青磁はいいが茶人はもったいぶっているなどと下らない詮議立てをするのは隠居の仕事である。

(中略)

裸で風呂に入ってきた那美さんにどう対処するかという問題は、社会的に孤立した単純な人間関係の中で設定される選択肢であり、矛盾に積極的に対処すべきか観察的に対応すべきか、度胸か臆病か等々の対立の具体例である。この選択肢自体インテリ世界の人間関係の限界を反映しおり、露骨に裸を論ずることも裸を回避して羊羹や芸術論に逃げることも孤立したインテリ世界の限界内部の精神形態である。

(Akamine's webpage)

『草枕』の批判者たちは、『草枕』という作品や、その語り手である画工の、あまりに現実逃避的な姿勢を批判します。

『草枕』が、この種の批判を受けることは、しごく当然のものだと思うのですが、私はこの種の『草枕』批判は、やはり、的外れだと考えています。

というのは、これから説明するように、頭の良い漱石は、現実逃避的だという批判を受けることを百も承知の上で、敢えて、『草枕』のような作品を書いているからです。

それどころか、漱石自身が、脱俗的な生き方をする画工を挑発するかのように、裸の美女や、戦場に赴く若者といった生々しい現実を、わざと画工の目の前に置くことによって、「非人情の芸術」という芸術論を脅かそうと挑戦しているような節すら見うけられます。

漱石は『草枕』の執筆に着手し始めた頃、教え子の浜武元次に当てた手紙の中で次の様に書いています。

所がね今かいてるものはね出来損つでも構はないが是非かいてしまはないと義理がわるいものでね毎日うんうんと申した所で昨日からいい加減な調子で始めたのさ」

(出典: 夏目漱石「明治三九年七月二七日付浜武元次宛書簡」)

また、『草枕』を脱稿してから約二ヶ月後に鈴木三重吉に宛てた手紙の中では次の様に述べています。

只一つ君に教訓したき事がある。是は僕から教へてもらつて决して損のない事である。僕は小供のうちから青年になる迄世の中は結構なものと思つてゐた。旨いものが食へると思つてゐた。綺麗な着物がきられると思つてゐた。詩的に生活が出來てうつくしい細君がもてゝ。うつくしい家庭が〔出〕來ると思つてゐた。

もし出來なければどうかして得たいと思つてゐた。換言すれば是等の反對を出來る丈避け樣としてゐた。然る所世の中に居るうちはどこをどう避けてもそんな所はない。世の中は自己の想像とは全く正反對の現象でうづまつてゐる。

そこで吾人の世に立つ所はキタナイ者でも、不愉快なものでも、イやなものでも一切避けぬ否進んで其内へ飛び込まなければ何にも出來ぬといふ事である。

只きれいにうつくしく暮らす即ち詩人的にくらすといふ事は生活の意義の何分一か知らぬが矢張り極めて僅少な部分かと思ふ。で草枕の樣な主人公ではいけない。あれもいゝが矢張り今の世界に生存して自分のよい所を通さうとするにはどうしてもイブセン流に出なくてはいけない。

此點からいふと單に美的な文字は昔の學者が冷評した如く閑文字に歸着する。俳句趣味は此閑文字の中に逍遙して喜んで居る。然し大なる世の中はかゝる小天地に寐ころんで居る樣では到底動かせない。然も大に動かさゞるべからざる敵が前後左右にある。苟も文學を以て生命とするものならば單に美といふ丈では滿足が出來ない。丁度維新の當士〔時〕勤王家が困苦をなめた樣な了見にならなくては駄目だらうと思ふ。間違つたら神經衰弱でも氣違いでも入牢でも何でもする了見でなくては文學者になれまいと思ふ。文學者はノンキに、超然と、ウツクシがつて世間と相遠かる樣な小天地ばかりに居ればそれぎりだが大きな世界に出れば只愉快を得る爲めだ抔とは云ふて居られぬ進んで苦痛を求める爲めでなくてはなるまいと思ふ。

(出典: 夏目漱石「明治三十九年十月二十六日鈴木三重吉宛書簡」)

鈴木三重吉に対する私信の中では、漱石は、『草枕』の画工の現実逃避的な姿勢を批判し、イプセンのようなリアリズム文学を賞賛しながら、同時期に公表した「写生文」や「『鶏頭』序」、また「余が『草枕』」という文章の中では、正反対に、リアリズムやロマン主義を批判して、自作の『草枕』や、俳句的な「写生文」、「余裕ある文学」を肯定的に評価しています。

読者の評価が『草枕』という作品に対して真っ二つに分かれる以前に、漱石自身が、『草枕』という自作に対して、アンビバレントな評価を抱いていたのです。

しかし、漱石は、『草枕』という作品をどうしても書かなければならないと考えていたのだと思います。

このことは、「是非かいてしまはないと義理がわるいものでね」という、浜武元次宛書簡の漱石の言葉にはっきりと表れています。

「義理」とは直接には、写生文運動を推進していたホトトギス派の人々に対する「義理」だと解釈できますが、そのような直接の人間関係を超えて、漱石は、大げさに言えば、日本人や人類に対する一つの義務として、『草枕』を仕上げなければならないと感じていたのではないかと私は推測します。

というのは、『草枕』という作品は、「近代化が猛烈なスピードで推し進められている日本に、また世界に、果たして人間は、近代文明の外部に立って生き続けることは可能なのか」という深刻な問いを、私たちに突きつけているからです。

この問いは、明治の日本人にとって重要であったのみならず、グレン・グールドのような、ポストモダン的な、なおかつプレモダン的なバッハ演奏を追求した西洋人にとっても、重要な意味をもつ問いであったことでしょう。

であるからこそ、グレン・グールドは、『草枕』という小説を、20世紀最大の傑作だと絶賛したのです。

猫を近代文明の外部に立たせることは容易でした。

しかし、漱石は、同じことを、今度は、画工という明治の日本人にやらせてみる必要があった。

たとえ、その脱俗的で現実逃避的な姿が、時には、幼稚であり、未熟であり、下らなく、また年寄りじみて見えようとも、そうして見せる必要があった。

『草枕』のような作品を書くことに「義理」を感じた漱石の姿勢は、作家として未熟であるどころか、そこに果敢な勇気を認めるべきだと思います。

複眼的な視点をもつ漱石は、画工と共に、「非人情の芸術」に共感するそぶりを一方では示しながら、同時に、「非人情の芸術」が抱える問題点や矛盾も、『草枕』の中で浮き彫りにしようとしています。

ですから、単に、『草枕』の画工は現実逃避的だ、漱石の筆致は未熟だと批判する人々は、漱石の仕掛けた罠にまんまとひっかかって、漱石の手のひらの上で踊らされているのです。

漱石は、なかなか一筋縄ではいかない作家です。

『草枕』について、引き続き論じていきます。

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No title

素早い返答ありがとうございます

このHPでの指摘はまさに見事に当たってるので
WFJさんの助言の通り基礎が大切だと思うので
早速お勧めで頑張って勉強したいと思います



No title

>Wjfさんはどういう経済の本を読んで
>基礎知識を勉強したのでしょうか?

日経新聞が出しているロングセーラの経済学の教科書『ゼミナール』シリーズです。

『ゼミナール国際経済入門』
『ゼミナール日本経済入門』
『ゼミナール現代企業入門』
『ゼミナール経済学入門』

バランスのとれた経済の基礎知識を学ぶことができます。

基礎知識を学ばずに、三橋の本とか、偏向した立場の本から入ってしまうと洗脳されてしまい凝り固まって信者化してしまうと思います。何事においても、基礎基本は重要であると思います。

たまにガーと一気に見てます
安倍はやばいを昔から指摘され
見事に当たってたわけですが
国民は知らず、国破壊が続くのが残念です

このブログを読んでいて歴史の部分は少しわかるのですが
経済はよくわかりません
Wjfさんはどういう経済の本を読んで
基礎知識を勉強したのでしょうか?
多くてもいいのでよろしければ教えてください
Wjf さんの経済の指摘を理解したいです


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