なぜ、「○○よ」と呼びかけるのか(15)

「言霊」と「言挙げ」(4)
生命の歴史であれ、人類の歴史であれ、宇宙の歴史であれ、時間を原初へと遡るほど、単一性と普遍性の度合いを増し加え、逆に、時間を現在へと下るほど、分岐化、分節化、多様化の過程が進行していくとするならば、

「AはBである。」(例: 「猫はほ乳類である。」)

という定言命題は、単に、「主語」(個別的な概念)が、「述語」(より一般的な概念)によって包摂される論理的な関係を示すのみならず、「現在」が「過去」によって包摂されるという歴史性をその中に含んでいることを、前回の記事で指摘しました。

このことを踏まえた上で、では、「主語優勢」的な言語や社会や文化は、また、「述語優勢」的な言語や社会や文化は、それぞれどのような特質を帯びると考えられるでしょうか。

次の様なことが考えられるはずです。

まず「主語優勢」的な言語や社会や文化においては、現在を出発点とし、そこに存在する、すでに分岐化、分節化、多様化が進んだ個別の人や物を中心に物事を考えていくことでしょう。また主語と述語が明確に切り分けられており、主語が、述語があらわそうとする属性や行動の主体として、述語よりも優位にあるものと見なす「主語優勢」的な言語観をそのまま反映して、現在を過去から切断され、過去よりも優位にあるものとして捉え、現在は、過去から独立して自由に振る舞うことが許されているのだと考えるようになることでしょう。

それに対して「述語優勢」的な言語や社会や文化においては、歴史の始原を常に意識しつつ、述語の奥深く、つまりは歴史の奥深くにひそむ、一般的で普遍的な存在に思いをはせつつ、それに包摂されたものとして現在を認識することでしょう。現在を過去から切り離されたものとして単独に取り上げるのではなく、過去から現在に至る歴史的歩みの全体を俯瞰する視野の中で、現在を生きる自らの存在を把握することでしょう。

また「主語優勢」的な言語や社会や文化では、分岐化、分節化、多様化された「個人」がもっとも大切なものとして尊ばれます。「個人」は、「主語」として「主体」として、環境や歴史から独立した「自由な意志」を発揮し、対象化された外部の環境や自らの運命をコントロールしようとすることでしょう。

それに対して「述語優勢」的な言語や社会や文化では、個々の人間を、社会や共同体や伝統や自然環境から切り離されたものとして捉えるのではなく、社会や共同体や伝統や自然環境と一体のものとして認識するはずです。

この結果、「主語優勢」的な言語・社会・文化では、政治的な支配者と、被支配者である一般の民衆は、支配の「主体」と「客体」として二つに分離されます。支配者は、支配の「主体」として、支配の「客体」である民衆を管理下に置こうとするため、超然たる権力を備えた独裁者のように振る舞うことでしょう。その一方「述語優勢」的な言語・社会・文化では、支配者と被支配者の境界線は曖昧であり、為政者と民衆が一体となった社会を形成します。

また「主語優勢」的な言語・社会・文化では、個人の意志が重要となるため、個人の意思表明の方法として選挙や民主主義の制度が発達します。それに対して「述語優勢」的な言語・社会・文化では、個人の意志よりも、主体を明確にしない集団の判断や合意が尊重されます。

「主語優勢」的な言語・社会・文化と「述語優勢」的な言語・社会・文化の相違は、宗教において、もっとも顕著な形で現れます。

「主語優勢」的な言語や社会や文化では、神のような「一般者」を「主語」の側に置こうとします。

たとえば西洋のキリスト教神学や形而上学では、神を主語に置いた上で「神とは何か」を論じてきました。

神を主語に置いた上で、

「神とは愛である」
「神とは存在である」
「神とは正義である」

といった命題を立てる。

しかし、神を主語にして上のような命題を立てた瞬間に、神は「一般者」であることをやめて、限定され分節化された一つの「個物」へと転じ、「愛」や「存在」や「正義」といった神の属性として述語の側に置かれた概念が、「神」を包摂する「神」よりも大きな概念であることとなり、「神」よりも大きなものが存在することになってしまいます。

神のような存在が真にあらゆる個物を包摂する「窮極の一般者」であるならば、神は決して主語に置かれてはならず、述語の側に置かれなければならない。述語の側に置かれるということは、神について語ることは許されない。西洋のような神学や形而上学を形成してはならず,神についてはひたすら沈黙を守らなければならないことになります。

(同じ一神教ではあっても、主語優勢的な傾向は、プロテスタント>カトリック>ギリシア正教>ユダヤ教の順番で強く、後者にいくほど、汎神論的=述語優勢的な傾向を残しているように思われます。なぜプロテスタンティズムが強い主語優勢的な特質を帯びているのか。動詞が厳格な人称変化をするために、必ずしも主語を置かなくても文を作れるラテン語やギリシア語のような言語ではなく、英語やフランス語やドイツ語のように主語を必要とする言語に翻訳されて思考されてきたことと関係があるのかもしれません。)

「主語優勢」的な文化とは異なり、「述語優勢」的な言語や社会や文化では、神のような「一般者」を主語に立てようとはしません。そもそも主語が存在しませんし、主語のような働きをする分節が述語にすっぽりと包まれているために、世界の外部に、世界から独立して存在し、世界を対象として支配する「主体」なる神というものを発想することができません。西洋人が行ってきたように、神を主語に立てて「神とは何か」などと問うたりはしないので、一見すると無宗教のように見えますが、述語の根底に「一般者」が潜み隠れているため、何も言わずにただ行住坐臥を営みながら、その奥に深い宗教性が秘められています。

このように神が述語の奥に潜むものとして感知される文化では、神は巨大なカテドラルが都市の中心を占めるように社会の前面や中心に置かれるのではなく、森のような、人間が生活を営む場の周辺(隈・熊・神)の奥深くに、ひっそりと姿を隠すように置かれます。

以上のような「主語優勢」的な言語・社会・文化、「述語優勢」的な言語・社会・文化、それぞれの特質を踏まえた上で、あらためて万葉集のテキストを精査し、「言霊」を「述語優勢」的な概念、「言挙げ」を「主語優勢」的な概念と考えた私たちの推定が適切なものであったか否かを次の記事で検証します。

(つづく)
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